夜来の雨があがって 風薫る5月のような一日でした。
目黒の五百羅漢寺と 隣の不動尊と 都立 林試の森公園を散策してきました。

ここ目黒の五百羅漢像は 禅僧 松雲元慶の偉業に依るものです。
京都に生まれ 腕のよい仏師であった松雲元慶は 23歳の時に出家し 鉄眼禅師の弟子になりました。
そして 耶馬渓の羅漢寺で五百羅漢に出会ったことが 羅漢像を彫りたいとの強い願いを抱かせることになりました。
師の許しを得た 松雲元慶は江戸に下って「五百羅漢造立勧化」の旗を揚げ 江戸中を托鉢して廻り 苦労を重ねるうちに 世の信を得るようになりました。
次第に寄進の縁も広がり 積年の願いであった 羅漢像彫刻を始めるようになりました。
江戸の多くの人々から浄財を得て 彫り続けること15年余り「生き羅漢」と異名を取るほど 羅漢像彫刻に打ち込み 530数体の群像を 一人で彫りあげました。 この数字は 盆暮れ 休み無しで 約十日で一体のペースです。
元禄8年(1695年) にはその功績が認められて 本所五ツ目に土地を賜り 寺が創建されました。 将軍 綱吉や吉宗の援助も得て 寺は大いに繁栄し 五百羅漢は「本所のらかんさん」と言われて 人気を集めました。
しかし その五百羅漢も 時代がかわり 明治に入ると 廃仏毀釈の流れによって 二度の移転をよぎなくされ 明治41年に 目黒のこの地に移ってきました。 その後 大正 昭和の間は 更に衰退して 雨露をやっと凌ぐだけの無惨な状態が続きました。 五百羅漢像も飛散の憂き目に遭い 今は305体の像が残って ここに安置されています。
昭和56年に 現在の近代的なお堂が完成し 「目黒のらかんさん」と親しまれるようになりました。
梅原 猛 さんが 半世紀以上前に「羅漢 (仏と人のあいだ) 」と題する本を著されています。
その中で ”羅漢も もともとは中国産の像である。そして、異国風の仏像の崇拝には、いつも緊張が伴っている。日本の仏教信仰には、過度に緊張して 背伸びした姿があった。その姿は、明治になって外国文化を受け入れる場合も続いた。” ところが 五百羅漢像たちは "そういう文化移入の緊張からはまったく解放されているようである。 民衆のくつろぎ、一服したところの姿が、ここにある。 作者は、羅漢の名において、人間を、ごくふつうの人間をつくったにすぎない。” このやうなことを書いておられます。
人っ気の無い 静かな堂内で 普段 其所いらで見かけるような実物大の顔 それぞれに対面していると その羅漢さんから 語りかけられるようで 落語「五百羅漢」の情景がリアルに浮んできます。(残念ながら 堂内の羅漢像は 写真撮影禁止になっています。)

羅漢寺の隣にある目黒不動尊は 3代将軍 家光の威光で 併せて五十三棟に及ぶ華麗なる伽藍の復興が成し遂げられ 当時は 目黒御殿と称されるほどでした。
現在も 各お堂は極彩色が施され 往時の繁栄を彷彿とさせるものがあります。
この不動尊は 江戸五眼不動のうち 東海道(黒色)沿いに在ることから「目黒不動」と呼ばれ 目黒の地名も ここに由来する とも言われています。
写真は 参道 入口の仁王門です。 広い境内のあちこちの八重桜が満開で 彩色のお堂にフィットしていました。

往時は 目黒不動尊の門前町として栄えたであろう商店街を通って ワンブロックほど歩くと 林試の森公園の鬱蒼とした森に入ります。 此所は 元「林業試験場」で 東西700m 南北250m 一周するのに45分かかる 広さがあります。
木漏れ日の道を通ると 心地よい風が吹き抜けて 23区内に こんな別天地があろうとは 夢の様です。
写真は 外来種の高木が 数多く植え込まれている地域に立つ 高さ30メートルを越す 白い木肌の巨木です みずみずしい新芽が吹き出しているのを 撮りました。