人々はこの時期 農園に出て来ても 穫るものを穫れば さっさと帰ってしまいます。
それに引き換え いよいよ 食べる物が無くなったのでしょう マナーの悪いヒヨドリや 群れで好き勝手に振る舞うムクドリが目につきます。
ホウレンソウの葉は このところの冷え込みで厚みが増し 色が濃く 重そうで ピッタリと地面に貼り付いています。
ご覧の通り 15㎝ほどの間隔で 3筋種を蒔いたホウレンソウは 上に伸びないで 横に広がり お互いに隣のレーンに侵入しあって それぞれの筋が見えなくなっています。 こうなるとホウレンソウの収穫は 葉と葉がひっつき合って 扱い難く 寒風の中で時間がかかりました。 穫ったホウレンソウは 店頭のポリ袋の中で行儀よく収まっているのとは 別野菜の様です。
しかし その分 食味は最高でした。
江戸四宿の一つ 「千住宿」を歩いて来ました。
日光街道も奥州街道も水戸街道もここを渡り 仙台の伊達候や水戸の殿様など 60以上の大名が参勤交代で通りました。 更に日光参拝時は将軍の大行列もあり 千住宿は 大変な交通量でした。(芭蕉もここから「奥の細道」の旅に出ました)
千住宿の町並みは 旧日光街道沿いにひらけ 天保15年(1844)の時点で 南北32町 人口約1万人 本陣1 脇本陣1 旅籠55軒 。 人口は品川宿の6千人強を大きく上回って 江戸四宿の中で最大でした。
次の写真は この通りの左側 店の看板の陰に立っている「千住宿本陣跡」の石碑です。
本陣は 石碑の立っている所から 奥寄り 西側に広がり 土地面積は約360坪 建坪は120坪の堂々たるものでした。 ここに殿様が泊まり 家来達は脇本陣や 一般の旅籠屋を使って泊まりました。
この町並みの途中に 古い家屋が2軒残っています。 一軒は 安政の大地震(1855年)の後に建てられた紙問屋(写真の家)です。 玄関の柱に残っている傷跡は 官軍と戦った彰義隊が刀で斬りつけたものといわれています。
その筋向かいにもう一軒 「千住絵馬」を作り続けている家が残っています。
お終いの写真は それらの物資を取扱う問屋の一軒の看板です。
江戸時代には青果のほか 穀物・川魚などの問屋が軒を連ねていました。
その店先で それぞれ せりが行われ せりのかけ声の「ヤツチャ ヤツチャ」から「やっちゃ場」の名が起こったといわれています。
クリックすると Picasaアルバム「千住宿」 がご覧いただけます。