金曜日, 1月 01, 2016

今年の初詣

 あけましておめでとうございます。
 今年の元旦も 雲一つない快晴で 風もなく暖かくて 初詣には絶好でした。
 恒例の「自転車で行く初詣」は20分ほどの所にある 田端神社へ参りました。

この辺りは 武蔵野扇状地の湧き水の一つ善福寺池に端を発する善福寺川に沿った南向き斜面です。
 水利と陽当たりに恵まれ 人が住むにはいい環境の場所ですので  石器時代の古くから人類が住み着いていました この神社が建っている台地からも多くの縄文土器や石器類が出土しています。
 この神社は 社伝によりますと 15世紀の始め頃に 北野天神と呼ばれ 道真公をお祀りしたのが創まりとのことです。
 江戸時代始め頃には 3坪ばかりの小さな社殿が建っていて 氏子はこの村の農家6軒だけでした。 名前の由来も 田ぼの端っこに建っている神社からきているのだそうです。
 その後江戸時代中頃 元文2年(1737)に近くに建てられた庚申塔には 講中26名が 毎日の食べ代の中から一握りづつの粟を持ち寄って 貯め 庚申の日にこの像を建てたと記されています。 その様な貧しいが 穏やかな農村であったことが窺われます。
 関東大震災以降と 戦災の後に 都心部からの移住者が急増してきました。 この鳥居の前には車一台がやっと通れるほどの道が直角に走っています その道も「鎌倉みち」と言われている古道ですが 現在は その道の両側に マンションや邸宅が建ち並んで 立派な住宅街になっています。

鳥居から100mばかり進むと ご覧の 社殿があります。 境内にある梅の樹には 早咲きの可愛い花が咲いていて ご近所の方が家族連れで初詣に来ておられます。
 先にも書きましたが 境内には 昔農家の人たちが講中を組んで 田や畑の道端などに建てたお地蔵さんや庚申様は その後 住宅化が進むに連れて この境内に移されて来ました。 その中で 享保三年(1718)銘の入った庚申様は 移転の際に像の地下より兜をつけた頭蓋骨が出土し 中野の宝仙寺へ納めたが 同寺が戦災で焼失したためゆくえ不明になったとのことです。
 その 庚申様の前にある10個の担ぎ石は 大正時代の若者達が力競べに担いだ石です。そのうちの一つの石に「五十五貫(206kg) 大正六年 十一月 当村 小林市松」と彫られています。 この方は 東京中の石担ぎの横綱で 田端の市さん と呼ばれていた人だそうです。
 この神社は 決して 立派で格式の高い社ではありませんが この辺に住んでいた人々の生活を今に伝えています。