
しばらくブログを お休みしました。
その間 秋の奈良に行って 興福寺の国宝館・東大寺の戒壇院と三月堂・新薬師寺など 主に 仏像を見て来ました。
奈良は冷たい雨が降る あいにくの天気でしたが 修学旅行をはじめ観光客で大変混んでいました。
写真は 観光ルートから 少し外れた 新薬師寺の本堂です。 ここに着いた時は 幸い雨も上がって 萩の葉のぼさぼさした黄色が 天平建築の簡素な佇まいを引き立てていました。
たまたま 今朝の新聞ニュースによりますと 新薬師寺の創建当時は 七堂伽藍 東西両塔が整った大寺院で 中でも 金堂は幅約59メートルのほぼ全面が階段と言う 当時の建築では珍しい構造の遺跡が出て来たとのことです。
しかし 現在残っている天平建築物はこの本堂のみで しかも この建物は 当時 食堂(じきどう)でした。
堂内は 観光客も少なく 薬師如来坐像をぐるりと取り巻いて安置されている 十二神将立像を一体づつ じっくりと拝観できました。
見上げると 天井を張らずに白い屋根板をそのまま見せ そこに垂木が等間隔に並ぶだけの簡素な造りが 天平建築らしい好い感じでした。

さて 今回の関西行きの主目的は 小学校の同期会に参加することでした。
我々 小学校の同期生は 全員 大阪の第一回大空襲で焼け出され ちりじりになった仲です。 それだけに求心力が強く 毎年この時期に集まって 旧交を温め合っています。
今年は 戦災によって焼失した母校跡に集合し 当時の面影が消え去った街に出て 各自の家らしい所を探して歩きました。 所々で昔話に花が咲き お互い 昔のことはよく憶えている年頃になったことを確かめ合いました。
上の写真は 母校にあった「花乃井」と言う井戸の現状です。 写真には写っていませんが 横に母校跡の石碑も建っていました。
この井戸は 江戸時代には岩見国津和野藩 亀井氏の屋敷井戸でした。 井戸の水は 大阪では珍しく良質なものであったことから 明治元年 明治天皇大阪行幸の際に献上し「此花乃井」の名を与えられ 以来 通称「花乃井」と呼ばれる名水でした。
明治2年の版籍奉還によって 津和野藩の屋敷は官に収められ 同5年に小学校が出来ても井戸は維持管理されました。
我々が通っていた頃は 学校の南西の角は鬱蒼とした木が生い茂って その茂みの中に蓋をされた井戸と「此花乃井」の石碑がありました。
戦災の後 街の区画整備と現在の中学校校舎建設の際に 井戸は ご覧の通り 石碑と井戸石の外形だけが 北東の角に移され 周りには冊が巡らされて覗けません ピンクに塗られた 建物は 現在の中学校校舎の一部です。 今や 「花乃井」の面影も かっての名水も なくなっていました。