例年よりも 一週間遅く 発芽器 愛菜花にポット蒔きしたトマトが発芽しました。
昨年は 4月の気象が異常で 4月の17日には東京で雪が積もりました 41年振りのことでした。 更に その後も4月25日頃まで 最低気温が6℃を割る寒い朝が続きました。
この低温の影響で トマトは枯れることはなかったのですが 樹が痛み その後の 花芽の着き具合に大きな影響を被りました。
そもそも 雨除け日除けを掛けない 路地でのトマト栽培では 梅雨明け以降も 樹上で真っ赤に熟した きれいなトマトの収穫を望むのは無理な相談です。 従いまして 可能な限りスタートを早めて 桜の花の散る頃に定植して 梅雨明け前には終えてしまうスケヂュールを立ててやって来ました。
昨年の結果を受けて 今年は 次のような修正を加えることにしました。
一つは 定植の時期を遅らせて 寒波の被害を受ける確率を減らすことにしました。 その分 種蒔きを一週間ほど遅らせました。
次に 出来るだけ 早生種を栽培することにしました。
従来も 早生種を重点に 品種選びをしていますが 何時もブログでお世話になっています waka3様のお作りになっている「スタピス トマト」は早生種で 是非一度作ってみたいと思っていましたので お願いをして 種をいただきました。
写真のトマトは この「スタピス トマト」です。
更に 2本仕立ての脇芽の選び方を変えようと思っています。
今までは一段花房の下の脇芽を伸ばしていましたが これでは主茎よりも2段分実の生る時期が遅くなりますので もっと早い段階で出てくる強い脇芽を伸ばしてみようと思っています。
さて 今年のトマトは如何になりますでしょうか?
2月も半ばになると一日に2〜3分づつ昼が長くなり その分 太陽の角度が高くなっているのが分かります。 相変わらず 吹く風は冷たくとも 日差し自体は温かくなっているのでしょう。
その様な冬晴れの日 王子・飛鳥山界隈を歩いてきました。
あの質素倹約を旨とした 8代将軍 吉宗が 上野や隅田川堤と同じく 王子一帯にも桜を植えさせ 桜の花見時には歌舞音曲も許したので 飛鳥山は江戸庶民の行楽地として賑わいました。 吉宗は 家臣に 遊山の人数について下問した という記録も残っていて そういう一面もそなえた将軍であったようです。
昨年の花見時にも 飛鳥山に来ましたが その時は 花見客で園内を自由に歩けないほどの人出でした。 さすがに今は 人の姿もまばらで ゆっくりと見て廻れました。
現在 飛鳥山公園には 3つの博物館があります「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」「澁澤資料館」です。
渋沢栄一は設立した王子製紙の工場を眼下に見守ることの出来る この飛鳥山に 邸宅を構えました。 そして 明治12年(1879)から 昭和6年まで生活した場所が そのまま「旧澁澤庭園」として残っています。
園内には 大正期に建てた 二つの建物「晩香盧」と「晴淵文庫」(共に国の重要文化財 指定)がそのままの姿で建っています。
写真は「晴淵文庫」の正面です。 外壁には伊豆天城産の白色安山岩を貼り 中央開口部には色付けした陶板が用いられ 上部窓には澁澤家の家紋をデザインしたステンドグラスがはめ込まれて 色鮮やかな壁面が構成されています。
飛鳥山を降りて 現在の本郷通りを都心方向に進むと この西ヶ原一里塚が道を挟んで両方にあります。
慶長9年(1604) 家康は江戸に幕府を開くとすぐに 日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き 街道の道程を示す目安とすることを命じました。 西ヶ原一里塚は 本郷追分の次の一里塚で 日本橋から数えると 日光御成道の二番目の一里塚にあたります。
旧道を挟んで一対の塚が現存しているのは 都内の一里塚としては貴重な文化財となっています。
実は 写真の左側の一里塚と2本の榎は 大正5年 東京市電の軌道予定位置にあったために 撤去されそうになりました。 澁澤栄一や東京市長・地元町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したものです。(現在は その市電も撤去されて 本郷通りの上り車線が一里塚を迂回して通る形になっています)
そう言うことで この一里塚は 大正時代に 文化人と住民が一体となって 文化財保存に成功した例としても記念碑的なものです。
Picasaアルバムをクリックすると 飛鳥山の写真がご覧いただけます。
16 件のコメント:
西が原一里塚は僕の古いHP「トラベリング・マイルストーンズ」の最初のところに出てきます。わざわざ西が原まで写真を撮りに行きました。
飛鳥山も板橋に仕事場があったころよく行きましたよ。
都内には名所が多くまだまだ行きたいところがありますね。
さて、そろそろ、じゃがいもやトマト、ナス等、ナス科の野菜の植え付け時期が来ますね。トマトは毎年、接ぎ木苗を買っています。じゃがいもは接ぎ木がないのでそのまま植えるしかりません。連作障害を防止するにはこれしかなさそうです。
モンカーさん、
早速 "traveling milestones" を拝見してきました。
懐かしい想いに浸りました。
私も入社すぐの頃は、駒込の独身寮に入っていました。
手持無沙汰の休日は、仲間と下駄履きで、この 本郷通りを王子までぶらぶらと歩きましたよ。
3月の「お水取り」が過ぎると、農園も一斉に始動します。
今年は 学校の 相模原 新農園も本格稼働するので、そちらも忙しくなりそうです。
毎年のことですが、菜園ブログさんが早々と
トマト栽培に取り掛かる様子を拝読しますと
春の訪れを感じます。そして私も今年こそは~とトマトに意欲的になります。
マンション暮らしの東京滞在では体を動かす
ことも少なくできるだけ歩くことにしています。歩くと本当にいろいろな発見がありますね。
野菜作りは天候に影響されるので難しい面もありますが楽しい面もありますね。
ハウス栽培と違って自然との闘いでもあり試行錯誤の連続ですね。
これも我々の年代になるとボケ防止に良いのではと思い楽しんでいます
HISAさん、
トマトのギザギザの幼い葉を見ると春をかんじますね。
ずっと出展していた、区の野菜フォトコンテストのトマトの写真も、昨年は途切れてしまう 残念な 不作の年でした。
今年は、写真に撮れるような 満足のいくトマトを育てたいと願っています。
東京は手軽に歩く半日コースが随所にあります。
江戸時代のものは まだかなり残っていて、行かれる前に ちょっとインターネットででも調べておくと より楽しい発見もあります。
これから 日に日に暖かくなります、是非 心身のためにも お歩きになってください。
nagamasaさん、
狭い農地で野菜を作っていますと、作る品種は決まってしまいます。
従って マンネリを克服するためにも、いろいろ考えてみることが フレッシュな気持を持ち続けることになると思ってやっています。
ひいては、ボケ防止になれば この上ないことだと願っています。
ところで、今年の気候はどうなるのでしょうか? 気になりますね。
苗を植えるのはもう少し後ですが、苗は今頃から育てるんですか。
夏野菜も冬からはじまるんですね。
kojiさん、
こんばんわ。
トマトは種蒔き後 60日で一段目の花が咲きます。 そして 花が咲いて60日で真っ赤に熟して収穫出来ます。
寒さで被害を受けない時期は、東京では 普通は(去年の様なことは異例です)4月の上旬ですので、それから逆算して2月の上旬に種を蒔いています。
ナスは トマトよりも寒さに弱いので、東京では 5月のゴールデンウイーク明けに植えます。 その頃には、既に ナスの苗が売り出されていますので、苗で買っています。
今年は少し遅く種を蒔かれると伺っておりましたが、私は逆に2番苗のことを考えて少し早目としたのですが、育苗器の管理でとんでもない失敗で全数を枯らしてしまい、敢え無い幕切れとなってしまいました。
大急ぎで追加の播種をいたしましたが、多分明日あたりの発芽となりそうで、結果的には昨年より一週間遅れとなりそうです。
waka3 さん、
やはり 幼苗の時は高温乾燥には気をつけましょう、寒さには耐えるようですね。
うちのトマトはやっと 本葉が出て来ました、その内に大きなポットに鉢上げします。
自然相手の一次産業はどれも天候に関する苦労が絶えないですね。家庭菜園での栽培に、過去を検証し先を予測しての種蒔きというのも中々実践にうつせることではないと関心いたします。今年もトマトの丹精度?楽しみになります。
北区の豊島五丁目団地に少しの間、住んでいて王子駅は通勤でも利用していたのに、飛鳥山にはとうとう一度も行けませんでした。桜に目が奪われていたのですが史跡も多いのですね。洋館の青空凄いです。
そうそう市電はまた、エコな乗り物として復活の兆しが全国にあるのだとか・・・大正デモクラシィーの風を思いがけないところで感じさせていただきました。
一次産業はどれも天候に苦労させられますね。家庭菜園の栽培で過去の天気を精査し先を予想して種をまくなんて中々出来ない事と感心いたします。今年も又トマトの丹精度??楽しみですね。
kimama さん、
スパムメールの防御が 効き過ぎて、コメントを幾度もお書き改めいただき失礼しました。
この「菜園ブログ」も加齢の影響か? 動作が敏捷で無くなっているのかもしれません。 お許しのほどお願い致します。
今年は 2年も続いて、異常気象は無いと思いますが、如何でしょうか?
マンネリ防止の為に、いろいろと試行錯誤をしています。
北区にお住まいでしたか、今度 北区の博物館を見て廻って、後氷期には飛鳥山の下 王子駅の辺りは海であったことを知りました。
地下鉄 南北線の工事で縄文時代の貝塚が発掘されて展示されていました。
その貝塚と同系統のものか 分かりませんが、一理塚の近くにある「七神神社」の境内でも、貝殻が幾つも落ちていました。
あら・・・やはりコメントがダブっていました。すみません。少し変だったのです(笑
生国が埼玉なので秩父が海というのは納得していたのですが、王子駅辺りも海だったのですね。今とは全く別の地形だった太古を改めて考えされられます。
kimamaさん、
こちらこそ失礼しました。
博物館の地層を見ますと、貝塚は2層に分かれていて、途中で氷河期が入ると海岸線が移動していたようです。
縄文中期の貝塚の貝種は カキとハマグリがほとんどで、その他の生活用品の遺物や、動物の骨等は入っていない、貝殻だけの特殊な貝塚です。
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