通勤にずっと利用していた中央線快速電車は 当時 殺人的な混雑でした。
電車がお茶の水に着くと やっと 乗る客よりも 降りる客が多くなり 車内に空間が出来て 窓の外に目をやる余裕ができます 発車して聖橋をくぐると 右の窓にニコライ堂の青い丸屋根が見え 左には湯島聖堂の瓦屋根が見えました。
ニコライ堂も湯島聖堂も そのうちに一度訪ねてみよう と思っていましたが それから ウン十年が過ぎてしまいました。
テレビドラマ「坂の上の雲」にあやかって 司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを開いてみると その三十六巻「本所深川散歩・神田界隈」に ニコライ堂や湯島聖堂について書かれています。
師走の冬晴の一日 仲間6名で そのコースを歩き 積年の思いを果たしました。(写真面をクリックすると 大画面がご覧いただけます)
ニコライ堂の建っている駿河台と 湯島聖堂のある湯島台地とは もとは繋がった一つの台地でした。 家康が江戸の城下町を造るにさいし 神田川の上水を日本橋・浅草方面に流すために 台地の真ん中に「神田お茶の水掘割」の大土木工事を行い 現在の姿になりました。
この官学としての湯島聖堂(正称は昌平坂学問所)が出来たのは 関ヶ原のあと二百年ちかくもたった 十一代将軍 家斉 のとき(1790年)でした。 それ以前 元禄年間に 五代将軍 綱吉が孔子廟を建てて「大成殿」と名づけた建物が この写真です。 なお現在の建物は 関東大震災後 昭和十年に建て直されたもので 木造風ながら鉄筋コンクリート造りだそうです。
境内に植えられた 楷の木が黄色く色づいていました。 楷の木は 曲阜(きょくふ)にある孔子の墓に植えられている木で 枝や葉が整然としているので書道で言う楷書の語源となった木だそうです。
なだらかな坂道を歩くと 右手上に神田明神の派手な門が見えます。
正月にそなえて 脚立を建て 大掃除の最中でした いかにも せっかちな江戸っ子らしさです。
「江戸総鎮守」の大きな表札が かかっています 江戸時代には 歴代将軍の尊崇をうけていた証拠です。 さらに 京都の祇園祭 大阪の天満祭り とならび日本三大祭りの一つとしてにぎわっていました。
司馬さんは次のように書いておられます。
”明治の世になると、祭礼は相変わらずながら、社格と言う点では、東京の府社にすぎなくなった。 3大祭りの一つの祇園祭を持つ京都の八坂神社が旧官幤大社だったことをおもうと、残念な気がする。
ひとつには「延喜式」による式内社ではなかったということもあり、ひとつには偏って徳川氏の庇護をうけすぎたということもあり、さらに考えると、祭神が 朝敵だった平将門だったということで、明治の世に適いにくかったのかもしれない。”
湯島台地の北の端に 湯島天神があります。
泉鏡花の「婦系図」の舞台として有名なところです。
建物のいたるところに 梅の花模様が描かれていますが この季節 名物の梅の木々は 寒そうでした。
江戸時代には 尋ね人の情報交換場として人の出入の多かったところで 御殿女中や僧の遊び場にもなっていたといわれています。 今は 合格祈願の絵馬が いたるところに掛けられ 世相を物語っています。
湯島天神の坂を下ると 不忍池もすぐです。 ここまで来たのだから ということで 旧岩﨑邸庭園を訪ねることにしました。
現存する 洋館とビリヤード室は ジョサイア・コンドルの設計によるもので 近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。
館内の随所にほどこされた見事なジャコビアン様式の装飾が 往時のままの雰囲気をただよわせています。
今日は コンドルが施工したニコライ堂で始まり コンドルが設計した旧岩﨑邸庭園で一日が終わりました。